「夢」
*****
夕暮れの中、うっすらとした長い影がアスファルトに伸びる。
日は短くなりつつあり、18時台といえど、あたりはもうだいぶ薄暗い。
天頂はもう深い藍になり、西の方の空のみが、かすかにピンクがかっている。
長い影の主の青年は大通りから中に入った住宅街を足早に歩く。
自らの住まうアパートまであと15分。
早く家につきたくて気が急いてしまう。
これもほぼ毎日のことだ。こんな毎日をもう何ヶ月と過ごしている。
しかし飽きずに、いやその喜びを知ってからこそ、ますます一刻も早く家路に着くことを望んでしまう。
(今日も来てくださってるだろうか)
期待が高まってしまう。思わず顔がゆるみそうになる。
(神子殿・・・いや、あかね・・・殿)
殆んど毎日欠かさず学校帰りに青年のアパートに寄って、彼の帰りを待ってくれる愛しい少女。
―――お帰りなさい、頼久さん
そういって輝くばかりの笑顔で迎えてくれる。
なれない仕事、なれない環境でどれほど疲れようとも、
彼女がいれば、心の中から温かみとエネルギーがあふれてくる。
過去、彼が住んでいた世界――京とは全く異なる世界。
それでも何とかここまでやってこれた。
それもこれも、やはりあかねのおかげだ、と頼久は思う。
恋人同士になって数ヶ月。
元々は龍神の神子として自分の主であった彼女と、その臣下であった武士の自分は、そんな肩書きのいらない世界で今、こうして恋人同士になっている。
神子殿と呼んでいたのも過去となり、今では彼女の名を呼ぶようになった。
京の世界にいたころには、考えられなかった生活・・・。
幸せをかみ締めながら、一歩一歩我が家へ向かう。
駅から徒歩20分ほど離れた、ゆるやかな坂を登ったところにあるアパートの一室。
そこが彼の住む家だ。
―――早くたどり着いて、あかね殿に会いたい
そう思えば思うほど、道のりが長く感じる。
(それにしても、今日はやけに長く感じるな)
ふと、頼久は立ち止まる。
そろそろたどり着いてもいいころだが、まだ彼の住むアパートは視界に入ってこない。
(まだか・・・)
早く帰りたい・・・頼久の足はさらに早くなる。今にも小走りになりそうなくらい。
さらに歩き続ける。足がどんどん重くなっている。
どれだけ歩いても、彼のアパートの見えるあの景色が見えてこない。
(おかしいな・・・)
頼久は立ち止まってあたりを見渡す。まだ半ばくらいか?いや、それとも道を間違えたか、駅を間違えたか・・・?
元々平安の世界に生きていた頼久にとって、この世界の景色は、まだなかなか馴染めない。
どの建物も、どの道も、どの景色も無機質で同じに見えてしまう。
こんなとき、少し心が重くなる。自分がこの世界の人間ではないということを実感させられるから。
自分はここにいていいのだろうか?あかねの傍にいていいのだろうか?常日ごろあるそんな思いも顔を出してくる。
(いや、今は・・・)
あかねに早く会いたい。とにかくそれだけだ。
頼久は、あかねが待っているだろう部屋へ向かうべくまた一歩踏み出した。
そんな時、
「頼久。」
突然背後から自分の名を呼ばれ、体がビクリと反応する。
自然とそのまま振り返ろうとするが、頭では何か違和感を覚えている。
なぜなら、この声を知っている。この声の主は・・・
「友・・・雅殿・・・」
頼久は振り返ったその先にいる人物の名を呼んだ。
(なぜ・・・ここに友雅殿が・・・?)
友雅は、以前京にいた時と同じ華やかな雰囲気を漂わせ、そして京の装いのまま微笑んでいる。
「これから警護かい?今日もご苦労だね」
幾度と聞いたことのあるセリフ。左大臣邸で会ったときには、友雅はそう頼久に声をかけていた。
「友雅殿・・・?」
ここに友雅がいるはずがない。京の世界の人間の中であかね達の世界に来たのは、彼女と思いを通わせた頼久ただ一人のはずだから。
「頼久?何かおかしなことでもあったかな。私がここに来ることはめずらしいことではないはずだが?」
そう言って、頼久の肩をぽん、とたたきそのまま頼久の脇を通って先へ進もうとする。
頼久は自分の横を通り過ぎる友雅を目で追っていった先で視界に入った景色に、目を見開く。
「ここは・・・」
見慣れた景色。
きれいに整えられた庭園。そしてその先に見える大きな建物。
間違えるはずもない。
自分が仕えていた京でも屈指の名門左大臣の屋敷だ。
そして、自分は着なれた紫色の武士の着物に身を包み、いつも肌身離さずいた自らの愛刀を腰に下げている。
「そんな・・・」
思わず漏れる言葉に、友雅は怪訝な顔をする。
「どうした?頼久。今日は君はどこかおかしいね。」
呆然と立ち尽くす頼久を見て、友雅はどこかしらまた含んだ笑みをみせる。
「ああ、確かに最近の君はおかしいね。神子殿が元の世界に帰ってからというもの、君はぬけがらのようだ。主を失い、まるで迷い子のようだね」
そう言って、ふふっと笑って去っていく。
(今、何と・・・?)
左大臣邸の寝殿造りに吸い込まれて行く友雅を呆然とみながら、頼久は独白のように吐く。
「神子殿が・・・いない?」
自分は今京にいて・・・そして・・・
(神子殿が帰った・・・?)
それでは、自分は京に残ったまま、そして神子は元の世界に帰ったということなのか?
あの、幸せな世界が夢であったということなのか?
自分の傍にはもうあの愛しい神子はいないということなのか・・・?
「っ・・・!!」
頼久のこぶしに自然と力が入る。
―――神子殿!!
*****
と、突如、頼久はずっしりとした重みを体に感じた。
視界が明るくなる。
ぼやけた世界には、やはり無機質なもの達。
京にはなじみのない家具や機械がたくさんある部屋。
ちかちかと点滅する四角い画面からは何かの音声が聞こえてくる。
これが、今自分の住んでいる部屋だということを認識するのに、少し時間がかかった。
それでも、数ヶ月暮らした部屋だ。どこか懐かしさも感じる。
そうだ、やはり自分は神子達の世界にやってきたのだった。
あれは・・・
(夢・・・か・・・)
どうやら自分は横たえているようだ。
横になっている顔を上に向けてみる。
天井にあるぼやけた光が、しっかりと丸い形を成すと同時に、視界いっぱいに顔が写った。
その顔は誰とでも間違えることのない、
唯一無二の、愛しい存在。
「頼久さん・・・?」
少し困ったような、優しい顔をした彼女は、頼久の顔を覗き込む。
「神子殿・・・?」
夢と現実がまだごちゃ混ぜになっている頭の中に入りこんできたあかねの姿に、何ともいえない懐かしさと安堵が込上げてくる。
頼久は思わずあかねの頬に手を添えた。
これが現実だということをしっかりと確かめたくて。
手にはほんのりとした温もりと柔らかい感触がしっかりと伝わってくる。
「どうしたの?頼久さん。少しうなされてたみたいだったけど・・・」
あかねは、頬に添えられた手に普段と違う頼久を感じ、少し戸惑いながらも、その手に自分の手を重ねる。
「いえ・・・」
頼久は、その重ねられたあかねの手を握り、安心したように、そのまま下に下ろした。
自分にとっては悪夢のような夢だった。常日頃心の奥底にある不安が現れたのだろう。
しかし、こうして間違いなく自分はあかねの傍にいる。手の温もりもしっかり感じる。
「少し夢をみていたようです・・・」
それを聞いたあかねはくすっと笑う。
「頼久さん、途中で眠っちゃったの。疲れてたのかもね」
その言葉にようやく頼久は、今日のことを思い出す。
確か、今日も仕事から帰ってきて、やはりあかねが自分の部屋で出迎えてくれ、幸せな思いのまま、明日は休みだからゆっくりできるという彼女と一緒に食事をして、ソファーでくつろいでいたところ・・・
(その後、寝てしまったのか・・・)
そして、あのような夢を見たということか。頼久はようやく全てを納得し、心が落ち着いてきた。
あかねと離れ離れになるなど、本当に夢でよかったと心から安堵する。
時計はすでに9時をさしていた。
ソファーに横になっているところを見ると、長い間眠ってしまったのだろうか。
確か自分は、普通に腰をかけてるだけのはずだったが、いつの間に横になっていたのか。
しかし・・・、この状況は・・・。ソファーに腰をかけたまま、上半身が横になっているようだ。
あかねの顔と体がすぐ傍にあるのを感じる。そして自分の頭があるのは・・・
(神子殿の・・・膝?)
心臓の鼓動が早くなり、手の平はじっとりと汗ばんでくる。
(神子殿に・・・膝枕など・・・)
嬉しくもあるが、恐れ多いとまで思ってしまうのは、やはり頼久の心にまだ主と臣下ということが抜けきれていないからだろう。長い間主君に仕える武士をしてきたのだから、仕方がないのかもしれないが。
そして、あんな夢を見た後だ。まだ頭にどこかしら京の様子が生々しく残っている。それが頼久の主従魂を揺り起こす。
(早く体を起こさねば)
そう頼久が体を動こかそうとソファーに手をかけたとき、上から声がした。
「頼久さん・・・さっき”神子殿”って言ったの気づいてる?」
「は・・・?」
再び視線をあかねに戻すと、すこし拗ねた表情で頼久を見ていた。
「もう、まだ時々言っちゃうんだね。」
(あ・・・)
確か、そう、夢の京の中で、自分は「神子殿」と言っていたかもしれない。
そして、それから、夢から覚めた後も、彼女をまた「神子」として意識していたかもしれない・・・。
「すみません・・・」
彼女は自分はもう龍神の神子ではないと言い張る。この世界では一介の女子高生だと。
そうだ。ここでは、自分はあかねに仕える武士ではないのだ。
「あかね・・・殿・・・」
まだ名を呼ぶときは、少し心臓の鼓動が早くなるけれど。
今、確かに自分は、一人の男として・・・彼女の傍にいる。
(では、こうしていることを・・・許されるのだろうか)
起こそうとソファーにかけていた腕の力を抜く。
頭をあかねの膝に預け、目の前には愛しい彼女の笑顔がある。
もう、隔てるものは何もないのだ。
甘く温かい気持ちが自分の中から全身に広がる。
―――ずっとこの笑顔の傍で
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