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「春の風」
花が香る・・・
空はきれいに晴れ渡り、ふわりと白い雲が浮かんでいた。 花と草の匂いの混じった春のにおいが立ち込めている。 風はその匂いに温かさを含んで運んでくる。
何度目の春だろう
春、というのは、少し苦手だった。 ある時期から。 どうしても、自らの過ちを認識してしまうから。
「頼久・・・!」 そう呼ぶ兄の声が今でも耳に残っている。
毎年、春になれば、その過ちを深く刻み、 そしてまた一年、その心の痛みを忘れずに、自らの使命を全うする。
それを幾度繰り返してきただろう。
今も、また自らに与えられた役目を果たさなければならない。
春の風に吹かれて、 急いで見つけなければ・・・
数刻前、 「その桜とはどちらでございましょう?」 「墨染ですわ」
馬は野を駆ける。 (よりによって墨染とは・・・) いや、まだ墨染にいると確信できるわけではない。 (一人で出歩くなど・・・何度目のことか。またしても気づかぬとはこの頼久の不覚・・・)
現れた龍神の神子というのは不思議な少女だった。 神子という畏れ多い地位にありながら、気位の高さもなく、自身の身の重要さも構わずふらりと出歩いてしまうような、普通の少女だ。 (鬼などに見つかっていなければよいが・・・) 彼女を早く見つけるためにも馬を走らせる。
風が吹く。
この快晴の下、馬を走らせるのは気持ちがいい。 郊外にでると、そこには野と畑が広がっている。 ところどころにピンクに色づいた桜の木々があたりを明るくしている。
風が吹く。
暖かい花と草の匂いが自分を包む。
春の訪れは、心の重いものだったはずだ。 しかし、どうしてだろう こうして馬を走らせている自分は、なぜかどこかいつもと違う。 優しい気持ちになる。 この風は・・・何かを思い出させる。何かに似ている。 何だろう・・・
ほどなくして墨染に着いた。 「神子殿?おられませんか?」 声を上げて探してみても返事はなかった。
もう少し辺りをぐるりと見回してみると、少し離れた丘の斜面にも桜の木々が見事に花をつけていた。 桜の花は明るい。 光を受けると眩しいほどに。 この世のものではないかのように。 極楽とはこういうことなのだろうか、とさえ思える。 頼久は導かれるようにその丘を登っていく。 丘の上は桜の天井で、眼下にも先ほど頼久がいた場所の桜が広がっていて、それは見事だった。
春の風が吹く。 身と心が暖かく包まれる。 甘く暖かい風。 花と草の匂いが一段と強くなった。
ふと右手に何かが動いたような気がした。
人?
それはまるで、桜に溶けてしまいそうな人影。 髪が風に揺れて、甘く優しく暖かい匂いを運ぶ。
いやあれは・・・?
「神子殿・・・」
呼ばれてゆっくりと振り向く彼女は、いつものように明るい笑顔を向けた。 「頼久さん」 まるで、それは甘く、優しく、花の香る風のようで・・・
――ああ・・・
そのとき、 頼久の中で何かが結びついた。
今日、ここに来るまで、ずっと自分に吹いていた春の風。 その風に吹かれて、何かを思い出して、心が暖かくなっていた。 それは、まさしくこの少女だったのだ。 彼女は、人の心を甘く暖かく、そして優しく包み込む。
光輝くようなその姿に、頼久はただ、呆然と、心奪われるかのように見とれていた。
一方、あかねは、ただ黙って自分を見つめている頼久に、怒っているのだろうと勘違いし、俯いて謝る。 「ごめんなさい・・・一人で出歩いて・・・」 その声に、頼久はわれに返り、 「いえ、何事もなくよかったです。さあ、神子殿お屋敷に戻りましょう。藤姫様も心配されております。」 頼久の様子のおかしさに、あかねは小首をかしげながら、頼久が走らせてきた馬に乗る。
風が吹く。 花の香りがする。 手綱を握る自分の前には、彼女が座っている。 風が吹く。 甘く暖かい風。 まるで自分が彼女に包まれているような錯覚を覚える。 心が和らぐ。
ずっとこの甘く優しい暖かさに身をまかせ、包まれていたい・・・
まだ自分では気がつかないところで、頼久はそう願っていた・・・
<終>
---------------------------------------------------------------------------- 春なので、春っぽいの(特に、春の始まり)を書きたくて、そして頼久さんが、まだ主としての気持ちしかもっていないとき。そして、徐々に魅かれていく、そのきっかけっぽいの惚れたときってのを書きたいなと思って書いてみたけど・・・難しいですね。ただ、この季節と、この季節の匂いが好きなのです。読んでくださった方、ありがとうございます。(あすか)
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